当館の「御殿守」という名は、上杉家赤湯御殿の用人(守番)の役職名
「御殿守(ごてんのもり)」から命名されました。
今から930年程前の寛治7年(1093年)、源義家の弟義綱が出羽の国平師妙の乱を平定する際に、草刈八幡のお告げにより温泉を発見したことから始まります。
その当時、傷ついた兵士を湯に入れたところ、たちまち傷が治り、温泉は傷からの血で深紅に染まったところから、赤湯になったといわれております。赤湯は湯治客のほか、出羽三山の登拝者、近村鉱山の鉱夫、馬商人達の宿泊も多く、古くから羽州街道の宿場町として栄えてまいりました。
そのような湯仙郷にあって、伊達藩、上杉藩の御殿湯として伝統を今に伝える当館「上杉の御湯・御殿守」は、まさしく郷土の歩みと共にあり、様々な出会いを大切にしてまいりました。
上杉の御湯御殿守の歴史は、謙信公の後、初代景勝公より家督を譲り受けました第二代藩主定勝公の時代にさかのぼります。当館の「御殿守」という名は、上杉家赤湯御殿の用人(守番)の役職名「御殿守(ごてんのもり)」から命名されました。 当時、赤湯御殿には併設して、赤湯温泉で一番古い大湯という源泉がありました。
大湯には、上杉家の殿様の入る御殿の湯(御留湯)、上湯、下湯、馬洗いの湯などがあり、当初は御殿守と湯守は別々に任命されておりましたが、後に両方を兼ねるようになりました。 とりわけ米沢藩中興の名君上杉鷹山公は赤湯を愛され、画家に命じて丹泉八勝(赤湯八景)を描かせ、文に長じた者に風韻を賦せられたものが上杉神社に所蔵されています。
(写真)米沢上杉まつりに展示した川中島の屏風。
また、初代石岡要蔵が火災で焼失した赤湯御殿を自費で再建し、上杉家赤湯御殿の御殿守に命じられたのも寛政8年(1796)8月、鷹山公が46歳の時でございました。当館では代々御殿守を世襲しておりましたが、明治になり、上杉家から赤湯御殿を譲り受けて、現在に至っております。これからも鷹山公が愛された慈しみの湯と御殿を大切に守り続けてまいりたいと思います。
館内の資料室「時の倉」では上杉家をはじめ、御殿守にまつわる資料を多数展示しております。